京都府立総合資料館

企画展先人達の京都研究
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第III部 京都研究をめぐる人々

 京都研究に尽力した人々について、それぞれの功績を著作等とともに紹介します。今では人名事典にも記載がないような忘れられた人物にも光を当てます。

1.平安遷都千百年紀念祭に関わった人々
 明治28(1895)年は、平安京に都が遷されてから1100年目にあたり、これを記念して平安遷都千百年紀念祭が10月22日から24日にかけて行われました。
 考証家としての博識を乞われてこの祭典に関わった人々の中から、田中教忠(勘兵衛)、碓井小三郎を取り上げます。また同じく考証家としてこの時代に活躍した高橋正意も併せて紹介します。
田中教忠(天保9(1838)年〜昭和9(1934)年)
 田中教忠(本名、勘兵衛)は、呉服太物商の家に生まれました。明治維新後に家業を廃して以後は、本名の勘兵衛よりも号の教忠を好んで使用しました。
 商家に生まれながらも読書を好み、19歳の時に国学者の谷森善臣に入門し、国学、和歌、歴史等の教授を受けました。
 古文書、古典籍を購入や書写により広く収集し、これらの文献を精読し、考証しました。
 平安遷都千百年紀念祭にあたって、京都府知事から桓武天皇の事績及び京都市の沿革、歴史を取り調べることを嘱託され、湯本文彦を助けて『平安通志』の編纂にも関わりました。桓武天皇を祀る平安神宮の造営は、この時教忠が建白したものです。その後、京都帝室博物館の開設にあたり、学芸委員となりました。
 教忠が収集した膨大な資料は、現在、「田中穰氏旧蔵典籍古文書」として国立歴史民俗博物館に収蔵されています。
碓井小三郎(慶応元(1865)年〜昭和3(1928)年)
 碓井小三郎は、中京区で糸物商「俵屋」を営む碓井佐七の三男として生まれました。兄2人が夭折したため、明治9(1876)年、12歳の時に家督を継ぐことになります。しかし、家業よりも学問を好み、多芸多趣味だったと言われています。和歌、国学、画などを学び、古代瓦、古美術にも造詣が深かったほか、桜の研究を得意としていました。また、京都史蹟会の一員として京都の名所・旧跡・伝説等の研究・保存に尽力し、『京都坊目誌』を完成させるなど、故実家としても知られていました。
 また、明治23年7月に連合町会議員となったのをはじめに、市会議員(明治25年3月〜37年3月)、府会議員(明治38年3月〜大正4年9月)を務めました。その間、平安遷都千百年紀念祭委員、時代祭取調委員、市学務委員等、様々な委員に就いており、『平安通志』の編集にも関わりました。
高橋正意(天保11(1840)年〜明治40(1907)年)
 高橋正意は、質屋を営む高橋清七の次男として生まれ家督を継ぎましたが、元治元(1864)年の蛤御門の変で類焼し、その後、努力して家業を復興しました。下京区第23組の戸長を務め、明治22(1889)年には京都市会議員となり、25〜28年まで府会議員を務めました。
 そのかたわら、京都史の研究に没頭し、また資料の収集にも努めました。文書類はもちろんのこと、正意の書き写した精密な絵図も残されています。
 しかし、残念なことに正意の著作は、刊行されたものがなく、その代表作とされる『京都祝融誌』(祝融とは火災のこと)は、現在所在不明となっています。
 亡くなる前年の明治39年から『京都医事衛生誌』に連載した「京都市学区地誌」も未完のままで終わりましたが、『京都府地誌』に倣い、学区を単位として記述するという体裁は、碓井小三郎の『京都坊目誌』に引き継がれ、京都史研究の主流となりました。
2.アカデミズムの京都研究
 アカデミズムの京都研究者として、明治40年に開設された京都帝国大学史学科国史学専攻の草創期の卒業生で、後に同大学教授として活躍した西田直二郎と、西田の二年後輩で『京都叢書』(増補版)の編纂に関わった粟野秀穂を取り上げます。
西田直二郎(明治19(1886)年〜昭和39(1964)年)
 西田直二郎は、大阪府に生まれ、大阪府立天王寺中学校、第三高等学校、そして新設されたばかりの京都帝国大学文科大学史学科と進み、明治43(1910)年に史学科国史学専攻の第一回卒業生として卒業しました。その後大学院に入学、大正4(1915)年に講師、同8年には助教授に任じられます。翌年から2年間、史学研究のためヨーロッパへ留学し、帰国後の同13年に京都帝国大学教授となりました。
 西田は、大学においては史学科の中心になって活躍し、「文化史学」という独自の理論と方法を創始しました。また、京都の史蹟調査研究にも関心を持っていました。西田は大日本言論報国会等の団体に関与していたため、戦後、教職不適格に指定され退官することになりますが、昭和26(1951)年には教職不適格解除を受け、同27年、京都大学名誉教授になりました。
 また、西田は、京都大学の二年後輩で、『史蹟と古美術』を刊行した粟野秀穂とは、個人的に親しい関係でした。
粟野秀穂(明治18(1885)年〜昭和13(1938)年)
 粟野秀穂は、仙台に生まれ、郷里の宮城県立第一中学校を卒業後、国史を学ぶため伊勢神宮皇學館に入学しました。皇學館を卒業後、明治42(1909)年、25歳の時に京都帝国大学の史学科に入学し、それ以降の生涯を京都の地で過ごしました。
 粟野は、京都高等女学校、紫野般若林校、真宗中学(大谷中学)、聖峰中学などで教鞭を執るかたわら、大学の同窓生や同好の士たちと共に史学地理学同攷会や国史普及会を立ち上げ、その機関誌編纂の任に当たっていました。また、他団体にも講師として招かれ、講演を行ったり、史蹟踏査に随行し、指導を行っていました。
3.京都史蹟会をめぐる人々
 京都史蹟会は、京都に関する史実を調査し、社会に貢献した事績や事物を顕彰することを目的とする歴史研究団体です。これまであまり知られていなかった民間の歴史研究団体である同会について、その概要と関連する人物を紹介します。京都史蹟会の創設者である、呉服商、千吉の西村吉右衛門、史蹟会の講師を務めた学者の小西大東、会員で、後に現代まで続く史迹美術同攷会を主宰した川勝政太郎の3人について、関係者の御遺族からの寄贈資料も交えて展示します。
西村吉右衛門(明治17(1884)年〜昭和19(1944)年)
 西村吉右衛門(喜一郎)は、呉服商、千吉の11代目の当主です。生来病弱であったためか、幼い頃より読書好きで、成績も優秀でした。
 学究肌の西村は、史蹟顕彰を志し、同好の士を募って京都史蹟会を創立し、講演会や展覧会、出版等各種の事業を手がけました。この間、本業は番頭に任せきりであったということです。
 御子息の西村大治郎氏が著した『父の生涯』という冊子に、病弱で、実母を早くに亡くすという点では家庭にも恵まれず、本業では経済パニックや戦争等波瀾万丈であった吉右衛門が、自分の人生を満足に思っていたとすれば、それは史蹟顕彰事業に尽力できた故であると記されているとおり、京都史蹟会の事業は吉右衛門がその生涯をかけて尽くしたことでした。
 なお、京都史蹟会に関する数多くの資料を西村大治郎氏より御寄贈いただきました。貴重な資料を御寄贈いただいたことに改めて御礼申し上げます。
小西大東(明治2(1869)年頃〜昭和19(1944)年)
 小西大東という洒落のような名前は筆名で、本名は笠原直治郎といいました。また、歌屋吉左衛門とも名乗りました。
 五条御影堂前の京鹿子商の次男として生まれましたが、幼い頃に実父とともに生家を離れたため、その人生には謎めいた部分があります。
 万巻の書物を読み、富士谷成章の北辺門の系統を継ぐ歌学者、赤松祐以の弟子であり、有職故実の学者として京都史蹟会の講師を務め、大正、昭和の大礼時には指導的な役割を果たしました。
 また一方では、京呉服の業界紙『実業新聞』の社長として、その編集発行を指導したり、京菓子や京扇子の図案や銘を考案したり、販売広告を手がけたりして、多才な京ブランドのプロデューサーとして活躍しました。
川勝政太郎(明治38(1905)年〜昭和53(1978)年)
 川勝政太郎は、中京区の染色を家業とする旧家の独り子として生まれました。京都市立第一商業学校(京都市立西京高等学校)を卒業後、建築史の天沼俊一博士に師事し、古建築、石造美術について学びました。
 昭和3(1928)年、スズカケ出版部を創立。昭和5年には史迹美術同攷会を創立し、雑誌「史迹と美術」を発刊、主幹としてその編集にあたりました。
 昭和18年、京都帝国大学文学部史学科考古学専攻を卒業し、その後、大阪工業大学、大手前女子大学の教授を歴任しました。昭和48年には、石造美術の研究により紫綬褒章を、没後に、勲四等旭日小綬章を受章しました。

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